アイヌの歴史

アイヌの歴史
(Wikipedia 百科事典)

  アイヌの歴史(あいぬのれきし)とは、アイヌ語で言うところのアイヌモシリ(日本列島の北海道島・千島列島および樺太島)の先住民族の一つであるアイヌの歴史である。

 序論

  アイヌは形質人類学的には縄文時代の日本列島人と近く、本州以南が弥生時代に入った後も縄文文化を保持した人々の末裔であると考えられている。アイヌとはアイヌ自らの固有の言語であるアイヌ語で「人間」を意味する。アイヌの歴史は、考古学上の概念としてのアイヌ文化が成立した時に始まるが、後にアイヌと呼ばれるようになるエスニック・グループは、アイヌ文化が成立する遙か以前から存在していた点に注意が必要である。詳しくはアイヌ文化を参照。

    アイヌの歴史の始まり

   先に述べたように、アイヌの歴史はアイヌ文化の成立を嚆矢とする。アイヌ文化はアイヌモシリ(北海道・樺太)で13世紀に成立したと考えられているが、史料が十分ではないため、アイヌ文化成立の経緯について考古学や文献でその経緯を十分に跡付けることは未だ困難である。しかし基本的には、北海道の前時代にあった擦文文化を継承しつつ、オホーツク文化と融合し、本州の文化を摂取して生まれたと考えられている。

   擦文文化に継承された続縄文時代の土器の文様には、アイヌの衣装に描かれる模様(アイヌ文様)との類似性があると指摘されるが、アイヌ文様は黒竜江流域や樺太中部〜北部の諸民族の文様とも類似しており、その発生・系統を実証することは困難である。

   オホーツク海南沿岸にあったオホーツク文化には、熊を特別視する世界観があった。これはアイヌ文化と共通するが、擦文文化の遺跡からはこれをうかがわせる遺物は検出されていない。アイヌにとって重要な祭祀である熊送り(イオマンテ)が、オホーツク文化(今日のニヴフに連なる集団によって担われたと推定されている)に由来する可能性も、示唆されている]。

   また、擦文文化とアイヌ文化の生活体系の違いは、日本からの鉄器や漆器など移入品の量的増大にあり、アイヌ文化にとっては交易で入手された物が重要な要素になっていた。この点からは、アイヌ文化を生んだ契機に日本との交渉の増大があると考えられている。

    北方諸民族との交流

   樺太アイヌは北方のツングース系などの諸民族とも交流があり、それを介して大陸の中華王朝とも関係を持った(アイヌ文化を参照)。1264年 には樺太に侵入したアイヌ(元朝の文献では「骨嵬」と書かれている)とニヴフ(同じく「吉烈迷」)との間に紛争が勃発した。この戦いにはモンゴル帝国軍が介入し、アイヌからの朝貢を取り付けた。その後もアイヌは大陸との交易を続け、江戸時代にはアイヌが交易によって清朝などから入手した織物や官服が、「蝦夷錦」と呼ばれて日本国内にも流通していった。

  千島・樺太のアイヌの歴史

千島樺太のアイヌは日露両国の進出、南北千島の分断統治、樺太と千島の交換、日露戦争ロシア(当時はソ連)の北方領土占領によって国際的に翻弄された。

   千島アイヌ

   千島列島には先史時代から居住者がいたが、文字記録が残されるようになるのはロシアが東シベリアまで勢力を拡大した18世紀からである。千島アイヌは千島列島を南北に移動して交易していたが、この頃、日本の北進と東シベリアを版図に入れたロシアの南進によって、彼らは生産・交易活動を両国に依存することが多くなっていった。1799年、エトロフ(択捉島)までを支配下に収めた江戸幕府は、1803年、エトロフ-ウルップ(得撫島)間のアイヌの移動を禁止した。これによりウルップ島以北のアイヌは日本との交易が困難になり、ロシアの影響を強く受けるようになった。1854年の日露和親条約によって千島列島は日露両国が南北を分断して統治することになったが、1875年には樺太・千島交換条約に基づき千島列島が全て日本の領土になった。その際居住者は日本国籍を得て残るか、ロシア国籍を得て去るか選択させられ、大部分は日本国籍を得た。

   1884年には若干の千島アイヌが日本領北端のシュムシュ(占守島)に残っており、北の国境に民間人を置いておくよりも南の地で撫育した方が良いと考えた日本政府は、97名を半ば強制的に色丹島へ移住させ、牧畜・農業に従事させた。しかし先祖代々続いた漁撈を離れ、新しい土地で暮らすことに馴染めず、健康を害するものも現れた。望郷の念を募らせる千島アイヌに対し、日本政府は1898年以降、軍艦に彼らを乗せ北千島に向かわせ、臨時に従来の漁撈に従事させる等の措置をとったものの、1923年には人口は半減していた。更に第二次世界大戦における日本の敗戦に乗じたソ連による千島・北方領土の占領に伴い、千島アイヌを含んだ日本側居住者は全て強制的に本土に移住されられ、各地に離散した。1970年代に最後の一人が死去した時点で千島アイヌの文化を継承する者は消滅したと思われている。

    樺太アイヌ

   樺太のアイヌも国際情勢の変化の影響を強く受けた。樺太・千島交換条約に伴って樺太がロシア領になることから、同条約発効に先立つ1875年10月、もともと樺太南部の亜庭湾周辺に居住し日本国籍を選択した108戸841名が宗谷に移住させられ、翌年6月には対雁(現江別市)に移された。生活環境の変化に加え、運の悪いことに1886年のコレラ、さらには天然痘の流行が追い討ちをかけ、300名以上が死去したという。1905年の日露戦勝によって南樺太が日本領になると、1906年、漸く樺太アイヌは再び故郷の地を踏むことができるようになった。ところが第二次世界大戦後に樺太全域がまたもロシア(当時はソ連)の占領下となり、同国政府によって樺太アイヌの殆どが北海道へ強制送還された。しかしながらアイヌは現在も樺太に少数ながら住んでいる。

   アイヌ文化

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 アイヌ時代(アイヌじだい)とは、アイヌ民族の成立から現在までに至る歴史の中で生み出されてきた時代である。現在では、大半のアイヌは同化政策の影響もあり、日常生活は表面的には和人と大きく変わらない。しかし、アイヌであることを隠す人達もいる中、アイヌとしての意識は、その血筋の人々の間では少なからず健在である。アイヌとしての生き方はアイヌプリとして尊重されている。アイヌ独特の文様(アイヌ文様)や口承文芸(ユーカラ)は、北海道遺産として選定されている。

   総説

   アイヌ文化という語には2つの意味がある。1つは文化人類学的な視点から民族集団であるアイヌ族の保持する文化様式を指す用法であり、この場合は現代のアイヌ族が保持あるいは創造している文化と、彼らの祖先が保持していた文化の両方が含まれる。もう1つは考古学的な視点から、北海道島の先住民が擦文文化期を脱した後に生み出した文化様式を指す用法である。

   注意すべきなのは、考古学的な意味でのアイヌ文化とは擦文文化を担った人々が時間経過とともに新たな文化要素を創出・移入することで到達した新しい文化様式だということであり、擦文文化期の終わりに全く別の民族が北海道島に進入してアイヌ文化を形成したわけではないということである。これは、日本民族が12世紀まで平安文化を保持し、13世紀から鎌倉文化と呼ばれる時期に移行した状況に近い。すなわち担い手は同じであるが、文化様式が変化したということである。

   ここで問題となるのは、アイヌ文化という1つの語が「ある民族集団の文化」と「歴史上のある時期に存在した文化様式」のいずれも意味するという状況のわかりにくさである。アイヌ族は現在も民族集団として存在しているが、現代のアイヌはチセに住み漁労採集生活を送っているわけではないから、考古学的な意味でのアイヌ文化を保持しているとは言えない。しかし現代のアイヌ族は考古学的な意味でのアイヌ文化を担った人々の末裔であり、現代のアイヌ族の保持する文化様式もまたアイヌ文化と呼ばれる資格を持つのである。

   瀬川拓郎は2007年にこうした問題の存在を指摘し、中世から近世にかけての(考古学的な文脈での)「アイヌ文化」を、北海道考古学史上最も重要な遺跡の1つである二風谷遺跡にちなんで「ニブタニ文化」と呼ぶことを提案している。

  本項では「近世以前のアイヌ」節において考古学・歴史学的な意味での「アイヌ文化」について主に解説し、「近代のアイヌ」「現代のアイヌ」節において、文化人類学・社会学的な意味での「アイヌ文化」について主に解説する。

    近世以前のアイヌ

   考古学的な意味でのアイヌ文化は、鉄製鍋、漆器の椀、捧酒箸(ほうしゅばし)、骨角器の狩猟具、鮭漁用の鉤銛、伸展式の土葬など物質文化面での特徴を目印としている。またアイヌ文化には地域によって差異が存在していたことが知られている。間宮林蔵の『北夷分界余話』によると、樺太アイヌは犬橇やスキーを使用するなど、オホーツク文化からの影響を伺わせる文化要素を取り入れていた他、近世に入っても土器の製作、竪穴式住居の使用という、北海道では中世アイヌ文化に限られる文化要素を保持していた。鎧の形状も北海道アイヌとは異なり、胸甲と腰部の装甲が一体となった独特のものであった。

   樺太アイヌはミイラ製作を行うという点でも注目を集めている。ミイラ製作はオホーツク文化圏でも北海道島のアイヌ文化でも行われない。

    社会構成


アイヌの晴れ着(大英博物館蔵)

   アイヌ文化が成立した時期のアイヌはコタン(小村・大体5、6軒)単位で生活を営んだと考えられている。その後、15世紀頃から交易や和人あるいはアイヌ民族同士の抗争などから地域が文化的・政治的に統合され、17世紀には和人から惣大将と呼ばれる河川を中心とする複数の狩猟・漁労場所などの領域を含む広い地域を政治的に統合する有力な首長が現れていたと推察されている。しかし、シャクシャインの戦い後には商場知行制や場所請負制が発展・強化されることによって場所ごとに分割されることとなり、アイヌ民族の地域統一的な政治結合も解体されていった。

   また近年、アイヌ社会が極端な富の偏在を伴う格差社会だったのではないかとの説が発表されている。瀬川拓郎は文献資料や墓の発掘調査結果などから、近世アイヌ社会はカモイと呼ばれる首長、その下の階層であるニシパ、平民、そして隷属民であるウタレという4つの階層に分かれており、カモイに富が集中していたのではないかと指摘している。

   生業

   近世以前のアイヌ族の生業は狩猟、漁猟、採取(山林・海洋)、農耕、及び交易を組み合わせて生活に必要な物資を確保するというものであった。鮭をカムイチェプと呼び主食の中心と捉えており、秋に遡上してきた鮭を大量に採集し漁場の近くに構えた専用の加工小屋兼住居で簡単な燻製を施した干物にし、保存食とした。これは自らの自給的な食糧として重要であっただけではなく、和人との交易品としても大量に確保する必要がある、主要産品の1つであった。

   農耕も行われたが、生業の基幹を為すものではなかった。ただしこれは農耕が不可能であったからというより(擦文文化期には広範に農耕が営まれていたし、洞爺湖町の高砂貝塚などアイヌ文化期の畑跡も数多く発見されている)、日本との交易による経済に特化した為、交易品となる鮭や獣皮、猛禽の羽根などを大量に入手出来るような生業形態となったのではないかとも考えられている。ヒエ(ピヤパ)の栽培が古くから行われ、祭事に用いるトノトという酒をこれから醸造した。他にアワ(ムンチロ)、キビ(メンクル)の栽培も行われた。これらを炊飯したものをチサッスイェプ、かゆに炊いたものをサヨと呼んだ。オオウバユリ(トゥレプ)の球根(鱗茎)から採取・塊状保存した澱粉と、澱粉を採集した後の滓を発酵させ、乾燥保存したものも主食の1つであり、この澱粉利用の伝統があったので、馬鈴薯が伝わるとすぐに受容した。

   シャクシャインの戦いが敗北に終わるとアイヌ族に対する松前藩の搾取体制は強化され、商場知行制、その後の場所請負制の中で、日本人商人による過酷な使役労働に従事させられるようになっていった。

    宗教


1870年に描かれたイオマンテの様子(大英博物館蔵)


イナウ(萱野茂二風谷アイヌ資料館蔵)

   近世以前のアイヌ族の宗教は汎神論に分類されるものである。彼らは動植物、生活道具、自然現象(津波や地震など)、疫病などがそれぞれ霊性を備えていると考えており、これらの事物には「ラマッ」と呼ばれる霊が宿っていると考えた。また世界を自らの住む現世(アイヌモシリ)とラマッの住む世界(カムイモシリ)に分けて理解し、ラマッは様々な事物に宿り、何らかの役割を持ってアイヌモシリにやって来ていると解釈した。ラマッはその役割を果たすと再びカムイモシリに戻るとされた。

   またアイヌの神々は絶対的な超越者ではなく、カムイが不当な行いをした際にはアイヌ側から抗議を行うということもあった。

   アイヌ族の宗教儀礼として最も良く知られる熊送りの一種「イオマンテ」は、擦文文化期にはその痕跡が見られず、逆に擦文文化期に擦文文化圏に隣接して存在していたオホーツク文化圏にその痕跡が見られることから、オホーツク文化圏からおそらくトビニタイ文化を経由してアイヌ文化に取り入れられたものと推測されている。このイオマンテは、「熊肉や熊の毛皮をアイヌモシリに届ける為に熊に宿ってやってきたラマッを、盛大な饗宴を開いてもてなし、多くの土産物を渡してラマッの世界に戻って頂く」という意味合いを持つ。

   アイヌの神事はカムイノミと呼ばれ、様々な神に対して行われるが、カムイノミを開始する際には必ず火の神アペチフカムイへの祈りを捧げることになっている。またカムイノミには白木を加工したイナウと呼ばれる木幣が使用される。

  また、アイヌ族は日本に編入されるまで神前裁判の風習を色濃く残していた。しかしながら、こういったことが、江戸時代及び明治維新以降の近代国家建設中の日本人からは十分な理解を得られず、日本人のアイヌ蔑視に結びついたという説がある。

    住居


平取町立二風谷アイヌ文化博物館で復元されたチセ


1805年に描かれたチセの絵

   近世以前のアイヌ族の住居はチセと呼ばれる独特の掘っ立て小屋であった。基本構造は掘っ立て柱に樹皮や葦で葺いた屋根、同じく樹皮や葦を用いた開口部の少ない壁面であるが、細部は地域によって違いがあり、例えば太平洋沿岸部でも渡島半島から白老にかけての茅葺きの「キ・キタイ・チセ」、白老から十勝にかけて分布する葦葺きの「シヤリキ・キタイ・チセ」、十勝から国後島にかけて分布する樹皮葺きの「ヤアラ・キタイ・チセ」などの種類がある。なお、チセの面積は最大で100平米(平方メートル)ほどと考えられている。

   チセの内部は四角形の一間であることが一般的であった。内部には炉があり、炉の正面の上座となる部分の背面には、カムイ(神)が出入りする為の窓が設けられた。チセの外には子熊を飼う為の檻、食料庫などが建てられた。こうしたチセが数軒から十数軒集まり、「コタン」と呼ばれる村落を形成する。

   アイヌの集落にはチセの他に、チャシと呼ばれる空間が造営されることも多かった。チャシが造営された時期は16世紀から18世紀と考えられている。造営の目的は未解明な部分が多いが、防御用の砦であったという説、富裕層の宝物庫であったという説、儀式を行う為の聖域だったという説、物見の為の場所であったという説などがある。これまでに北海道内で500箇所以上のチャシ跡が見つかっている。

   宝物

   近世以前のアイヌ族は交易によって異文化圏から入手したものの一部を宝物として珍重していた。アイヌ族が宝物としたのは刀剣類、銀器、中国製の絹織物(蝦夷錦)、漆器類、猛禽類の羽根などが主であった。

   ちなみにアイヌ族が最も珍重したのは「鍬形」と呼ばれる金属器である。これは厚さ1ミリから2ミリ程度の鉄や真鍮の板をV字型に加工したもので、表面は漆や皮、銀メッキされた金具などで装飾されていた。これは何らかの呪具であったと考えられており、原材料の高価さや製造加工の困難さではなく、この物体に宿ると考えられた霊力の強力さ故に重視された。鍬形以外の宝物はヤップ島の石貨などと同じように、稀少財としてアイヌ族の有力者の間で流通していたが、鍬形は他人に譲られることは無く、持ち主が死ぬと岩陰などの隠し場所に隠されたまま行方知れずとなり、朽ち果てていった。

1916(大正5年)、夕張郡角田村(現栗山町)で発見された鍬形7個の内4個が東京国立博物館に保存されている。

   交易

   中世のアイヌは干鮭、クマや海獣の毛皮、猛禽類の羽根などを日本に輸出し、日本からは各種の奢侈品を輸入していた。輸出品としての鮭を確保する為に生業を鮭漁に特化した集落も存在していた。このように輸出経済を前提とした生業構築は擦文時代中期である9世紀頃に成立し、アイヌ文化に継承されたものである。

   また13世紀の樺太侵攻は、ニブフの中に存在した猛禽の羽根を集める職人を拉致する為だったのではないかとの説もある。一方、日本から輸入された奢侈品は富裕層が宝物として所持し、それらを衒示的に消費することで部族内での権威を担保していたと考えられている。

   口承文芸

  アイヌ族はユーカラと呼ばれる口承文芸を持っていた。ユーカラは近代以降、一時的に衰退したが、現在では保存運動が展開されている。詳細はユーカラを参照のこと。

  衣服

  アイヌ民族の衣装としては、イラクサの繊維から作られるテタラヘ・ユタルベなどの草皮衣や、毛皮・アザラシの皮・鮭やイトウの皮などで作られる羽織状の上着(獣皮衣、魚皮衣)があるほか、オヒョウなどの木の皮から繊維を取って作られるアットゥシと呼ばれる丈夫な樹皮衣が17世紀以降一般的なものとなった。その他、日本からは木綿の衣装が大量に輸入された。中国からは山丹貿易で絹の衣装も輸入され、各々着用された。絹の衣装は「蝦夷錦」として日本に売られた。またアットゥシも日本各地へ輸出され、服として加工された。

   刺青

  アイヌ族にも刺青をする習慣があった。特に知られているのは、成人女性が口の周りに入れる刺青である。髭を模した物であると思われている。

   徳川幕府、明治時代に入り明治政府がこれを禁じたが、隠れて行なわれることも多く、彼らの文化の重要な位置を占めていた。現代では特に重要な行事において、フェイスペインティングとしてアイヌの女性が口の周りを黒く塗る事例もある。

   暦

   アイヌ族は文字の暦は使用しなかったが、代わりに口頭で伝承される暦を持っていた。

    楽器

   パラライキ(バラライカ)。ウマトンコリ(馬頭琴)、カチョー(太鼓)などが存在した。

   文様

   アイヌ族は衣服や道具を伝統的な文様によって装飾していた。こうした文様は12世紀頃のアイヌ文化の成立時には存在していたのではないかとも考えられている]。

   江戸幕府によるアイヌ文化への干渉

  1799年に始まった江戸幕府本体の北海道進出は1807年の松前家梁川転封により、北海道全島の日本による領有へと進んだ。1855年に函館が開港されると、翌1856年には渡島半島南西部の松前藩領以外が天領とされた。この後、江戸幕府はアイヌ族の日本人化を図り、松前藩が禁じていた笠や蓑や草履の着用を解禁した。同時に幕府は髪型や衣服、名前を日本風に変更するよう圧力をかけ、刺青やイオマンテなどの伝統文化を禁じた。しかし、こうした政策はあまり成功しないままに終わった。

   北海道開拓使によるアイヌ文化への干渉

   1869年、明治政府は北海道の領有を宣言し、北海道に居住するアイヌ族を自国民として国籍を作成した。この年、明治政府によって置かれた北海道開拓使はアイヌ語の使用やアイヌ族の伝統的な生活文化を事実上禁止し、またアイヌ族が生業を営んできた土地や資源からアイヌ族を排除する政策をとった。また1875年に明治政府はロシアと樺太・千島交換条約を締結し、樺太や千島列島に居住していたアイヌ族を北海道島や色丹島に強制移住させる政策もとった。これらの政策はアイヌ文化に甚大な影響を及ぼし、アイヌ文化は変質を余儀なくされた。

  北海道旧土人保護法

   1899年には北海道旧土人保護法が施行され、明治政府はアイヌ族への日本語教育など日本民族への同化政策(ただし、アイヌ族の子弟は日本民族の子弟とは別の学校に通わされた)をさらに推進した。これらの学校ではアイヌ語やアイヌ文化は教えられることが無く、またアイヌ文化については否定的に表象されるなど、近世アイヌ文化の破壊は更に進んだ。

  アイヌ文化の研究者はいたものの、アイヌ語やアイヌ文化の膨大な資料を残した金田一京助でさえアイヌを滅ぶべき民族と捉えるなど、偏見は根強かった。結局、こうした状況は第二次世界大戦に日本が敗れるまで続いた。

  アイヌ文化研究の始まり

   一方、近代になるとアイヌ文化を学術的に研究したり、記録したりする試みが行われるようになった。これは日本民族の研究者とアイヌ族の研究者が中心となった。主な研究者としてはユーカラを記録・翻訳した知里幸恵(アイヌ族)、アイヌ語研究で知られる金田一京助(日本民族)と知里真志保(アイヌ族)などが挙げられる。